吉増剛造インタビュー

一九六四年の第一詩集『出発』刊行以来、吉増剛造氏はたゆまぬ創作活動を続け、戦後の日本の詩の世界においてもっとも特異なアートフォームのひとつを創り上げてしまった。あまりにも風変わりで、時には活字化することすら難しく、時には声とともにパフォーマンスという形態を取らざるえなかった。それゆえに、吉増さんは異端児と看做されてきた節もあるが、詩というものの本質を探求する姿勢においては至極まっとうな道を歩んだともいえるだろう。60年代末からの現代美術やフリージャズとのコラボレーションをはじめ、80年代からは銅版に言葉を刻んだオブジェの制作、近年は写真作品や「gozoCiné」と名づけたビデオ作品も多数発表するなど、違ったメディアにも積極的に取り組んできた。現在七四歳にして、どん欲な制作意欲は一向に衰える気配がない。このインタビューは、二〇一二年一〇月一日、ある秋晴れの日、ニューヨークのダウンタウンのカフェ「ピンク・ポニー」にて行われた。吉増さんがギタリスト、ターンテブル奏者の大友良英氏と組んで北米五都市をパフォーマンスして回ったツアーを前日に終えたばかりだった。

Yoshimasu Gozo. Untitled, 2008. Published in 『表紙』Omotegami (Sichosha) © 2014 the artist

2012年10月1日 吉増剛造インタビュー ニューヨーク、ダウンタウンのカフェ、ピンク・ポニーにて

恩田: 今日は六〇-七〇年代の日本の文化状況と吉増さんとの関わりについてお話しを伺おうと思います。吉増さんが処女詩集『出発』を刊行されたのは六四年ですね。ちょうど慶應義塾大学を卒業された頃でした。どんなことが日本では起こっていましたか? 

六〇年安保闘争と学生生活

吉増: 六〇年安保闘争があって、その洗礼を受けながら学生生活を送っていました。ご存知のように六〇年代はアメリカニゼーションの時代といって間違いないと思いますけれども、その新鮮な波動が、文学としてはビート・ジェネレーション、歌声としてはボブ・ディラン、ジョーン・バエズらの歌声として響いてきて、しばらく遅れてビートルズが聞こえてきた。思い出しながらお話ししますけれど、僕の学生時代にビートの最もすぐれた紹介者だった諏訪優さんという人がいて…、詩人で、翻訳家で、優しい人だったのね。ギンズバーグの『Howl』や『Kaddish』を聴く会を頻繁に企画していました。東京で『Doin’』という雑誌を出し始めて、白石かずこさん、奥成達さん、草森紳一さん、岡田隆彦さん、沢渡朔さんたちが関わって、音楽、写真、詩が交じりあっていました。だから、その当時の先駆的な詩の状況はまずアメリカの最先端を紹介する諏訪優さんのまわりから始まっていました。詩と同時にジャズが入ってきた。ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン…。六〇年代の初めというのは同時多発的でしたね。もう一つの大きな流れは美術だった。その最先端には瀧口修造さんがいた。日本でのシュールレアリズム研究における中心人物だったけれども、人柄があの国の人と思えないくらい稀な人だった。元々は西脇順三郎先生のお弟子さんだったけれど、アナーキーというか、細心で、繊細で、深い…。磯崎新さん、荒川修作さん、武満徹さん、東野芳明さん、大岡信さんらがそのまわりに集まっていまいした。それから舞踏の土方巽さんもいた。寺山修司さんもいた。だから、そのころの最も大きな文化の中心を形成したのは瀧口修造星雲です。もちろん、美術を芯に据えての話しですが…。で、その次ぎの世代の人たちが、ハイレッド・センターの赤瀬川原平さん、中西夏之さん、高松次郎さん。さらに写真家の高梨豊さん、中平卓馬さん、森山大道さん、多木浩二さん。この人たちが一九七〇年に『プロヴォーグ』を創刊して写真史に足跡を残すことになります。それこそ“星雲”のようにして、日本の戦後の芸術運動を形成していた。生け花作家の中川幸夫さんや舞踏の大野一雄さんでさえ、この“星雲”のただ中にいたといえる。場所としては南画廊、東京画廊、新宿の椿近代画廊などがありました。そういった場所で美術の運動、文学の運動が重なっていた。

“アンダーグラウンド”のさらに底流のような流れ

恩田: なるほど。諏訪優もひとつの“星雲”だったんでしょうか?

吉増: いや、“星雲”というようないい方では捉えられないのね。むしろ、異端児ですね。英米文学の仲間からは随分と白い目で見られていたし、敵が多かったはずです。茨の道を歩んで早死にしたけども、この諏訪優さんという人を逃しちゃいけない。『Howl』と『Kaddish』を翻訳し、それからグレゴリー・コーソも翻訳したかな。練馬に住んでいて、英文学者の仲間は“練馬ビート”って悪口をいっていたけど、彼の果たした役割はとても大きかった。「詩の朗読運動」と「リトル・マガジン」を出していこうとする運動の中心人物で、 白石かずこさんがそこにいました。“アンダーグラウンド”のさらに底流のような流れでしたね。

恩田: 諏訪優と吉増さんの関わりあいはどういうものでしたか?

吉増: 六四年、処女詩集『出発』を出してすぐに、諏訪さんが僕の詩を読まれて、 『Subterraneans』の第二号に書かせてくれた。その雑誌は今でも大切に持っています。非常にインティメイトな、垣根をすーっと超えるような精神がその頃はあった。

Cover of Subterraneans (1962). Edited and published by Suwa Yu
Cover of Doin’ (1963). Edited and published by Suwa Yu

恩田: ビートにせよ、安保にせよ、時代の雰囲気と合致したんでしょうか?

吉増: その頃だったと思いますが、ケネス・レクスロスも日本にやって来た。ビートの親代わりみたいな人でね。一世代前の野性的で大きなアメリカの詩人でした。それにつられて、まだ若かったギンズバーグや、ゲーリー・スナイダーも京都の南禅寺に来ていたかな。京都がいつも熱くて…。

恩田: そういうアメリカのビート詩人たちと接する機会があったんですね。

吉増: そう。それに、六四年にロバート・ラウシェンバーグがやって来て、草月会館ホールで「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」というパフォーマンスをやりました。その結果が『金本位制 』 Gold Standardの作品です。その頃、東野芳明さんとか、飯島耕一さんとか、いわゆる東大の仏文科出の秀才たちがシュールレアリズムの研究会をつくっていたんだけど、その人たちの美術批評が東京の文化をひっぱり始めた。みんな瀧口星雲に属していました。

恩田: なるほど。面白いのは瀧口修造はもともとフランス文化とつながりがあって、その星雲のなかにアメリカ文化が入ってきたと。

吉増: ひとつの大きな道はね、マルセル・デュシャンだった筈です。デュシャンという人はフランスから亡命するようにしてニューヨークに来たじゃない。マックス・エルンストもそうだね。だからアメリカの一番先端的なものとフランスのそいうものの接点も無視できない。荒川修作さんもニューヨークに活動の拠点を置くようになったし。フランスの知識人たちがニューヨークへ動いて、フランス一辺倒ではなくなった。クロード・レヴィ=ストロースだってそう。そういう流れが瀧口さんとシュールレアリズムを中心とする日本の六〇年代の文化運動と連動していた。ただ、僕がその場で見ていたようにいっているけれど、ほとんどが雑誌からの知識や伝え聞きですけどね。こういうの苦手だなあ…。

恩田: 日本の知識人はフランス文化から学ぶうちに、その流れをフォローするうちにアメリカ文化というものを発見し、それを日本に輸入し始めたということでしょうか?

吉増: そういういい方で正しいと思います。

そんな古典的な土壌の中から、最も先端的な流れが生まれてきて、それが草月会館ホールだった

恩田: 草月会館ホールはどういう場所だったんですか?

吉増: 生け花の流派で保守的な池坊とか古流というのがあるじゃないですか。草月流は池坊から出てきたのかな。勅使河原蒼風さんという途方もない天才が流派を作って、その息子が勅使河原宏さんという映画作家だった。そんな古典的な土壌の中から、最も先端的な流れが生まれてきて、それが草月会館ホールだった。勅使河原さんのところは、資金もあるし、場所もあるから、一種の文化的な拠点になっていった。それから、当時は読売アンデパンダン展という大きな展覧会を読売新聞が運営していた。読売の文化部長だった海藤日出男さんが中心人物だったのね。そこからたくさんの才能のあるアーティストが出てきた。それが草月の運動とリンクして、瀧口さんのサークルもかぶってきていますね。

Yoshimasu Gozo. Untitled, 2008. Published in『表紙』Omotegami (Sichosha) © 2014 the artist

恩田: なるほど。その当時は美術も、文学も、舞踏も、他の分野も、何の垣根もなかったように聞こえるんですが…。

吉増: 今から考えると恐ろしいぐらい垣根がなかった。一九六八年頃のいい方の「解放区」です。詩の場合は、六〇年代初期の『凶区』の活動が画期的でした。天沢退二郎さん、鈴木志郎康さんたちのね。それに蠢くようにして、政治運動、歌謡曲、盛り場、美術批評、暗黒舞踏、ジャズのトポス、それから寺山修司さんと唐十郎さんの演劇運動。寺山さんも、唐さんも、土方さんを介して瀧口修造とつながっています。瀧口さんというのはね、温和で静かだったけど必ず現場に姿を見せていた。どんなにつまらいものでも、ちゃんと片隅で座って見てました。これは頭でっかちの批評家には真似できない。瀧口さんの一番弟子が武満徹さんでした。普通だったら自分の師匠に作曲家をまず第一に挙げるけれども、武満徹は瀧口さんを挙げる。それでわかるじゃない。荒川修作だって瀧口さんを挙げる。磯崎さんだってそうでしょうね。そういう芸術共同体の真ん中にいたのが瀧口さん。私製のパスポートを作って若い友人に差し上げるとか、遊びの精神のある人だったし、反骨の人でもあった…。

恩田: だからこそ違うジャンルの人を集められたんでしょうね。瀧口さん自身の仕事というのはどいうものでした?

吉増: 瀧口さんの代表的な書物は『近代芸術』ですけれど、シュールレアリストとしての存在というか立ち居振る舞いが実に根源的かつ全身的でした。ただ、瀧口さんは周囲から見れば美術評論家として神話的な人だったけれど、学問の世界やサークルの外からは胡散臭い人に見えたに違いないと思います。晩年にはデカマルコニーの制作に打ち込まれていましたね。

Yoshimasu Gozo. Untitled. 2008. Published in 『表紙』Omotegami (Sichosha) © 2014 the artist

恩田: ちなみに瀧口さんのサークルと草月会館ホールの関わりあいはどういうものでしたか?

吉増: 僕は少し距離を取っていたからあまり詳しくはないのだけれど、『SAC』という雑誌があって、一種の総合芸術誌なのね。草月はお金があったから原稿料がとても高いわけ。そこに、大岡信さん、東野芳明さん、中原佑介さんとか、瀧口配下の評論家がたくさん書いてた。映画の世界でも、『映画芸術』という不思議な雑誌があって、中心人物が小川徹さんというもう亡くなった人だった。そこに、吉本隆明さん、三島由紀夫さん、大岡信さん、飯島耕一さんが書いてられた。『SAC』も、『季刊フィルム』も、『映画芸術』も、『美術手帳』も、ひらいてオープンな雑誌だった。文学では『ユリイカ』はまだ出てないから『現代詩手帳』かなあ。雑誌が今みたいに縮こまってなくて、ひらいていた。新聞の文化欄もそうだよね。いい書き手がたくさんいました。

瀧口修造さんは、前衛芸術家たちの親元のような存在

恩田: 雑誌だけでなく書き手にも恵まれていたと。

吉増: ジャーナリズムがまだ小さかったってこともあるけどね。それでいて瀧口さんは、決して新聞には書かないようにしていた。僕が知っている限りではシュールレアリズムについて書かれたものがあるだけ。ちょっと退いたところにいて、前衛芸術家たちの親元のような存在として動かれていましたね。その当時のひとつ大きな出来事として、赤瀬川原平さんの偽千円札裁判があったのね。その時の特別弁護人を瀧口さんが引き受けた。そういう大事な節目で、赤瀬川さんの行った根源的に反社会的な行為に、ちゃんと手を挙げて意思表示をされた。大事な局面に必ず瀧口さんがいました。

恩田: アメリカ文化との関わりあいはどう続いていったんでしょうか? 

吉増: 皆の口の端に上って、神話的に語られた名前がマルセル・デュシャンで、その流れにジョン・ケージがいたのね。しばらく遅れて六〇年代後半に、詩とジャズの運動が始まった。ここには瀧口さんはいらっしゃらない。ジャズはむしろ、『VOU』の清水俊彦さん、奥成達さん、白石かずこさんね。メカスの『リトアニアへの旅の追憶』が来たのが、七二年だったかな。それ見たときの衝撃をね、今でも覚えてる。あのアラーキーもそうだった。飯村隆彦さんはもっと早かったかもしれない。それで震撼させられた人は多かったはずです。

ニューヨークの文化に対する意識はなかった

恩田: その当時、たとえばメカスの映画を観て、ラウシェンバーグの絵やパフォーマンスを観て、ギンズバーグの詩を聞いて、ニューヨークのアンダーグラウンド文化を考えると、そういう有名な人達をのぞいて、日本に入ってきた情報はある程度限られていたと思うんです。ニューヨークの文化に対する意識はありましたか。

吉増: 僕の場合にはなかった。

恩田: おおきなつながりは見えずに、ポイントでメカスが入り、ギンズバーグが入りって感じだったんでしょうか? 

吉増: そうだろうと思う。だから、後年になって八〇年代の終わりにニューヨークでメカスのパーティ行ったら、ギンズバークが来てて、ようやくそのつながりが見えてきたという…。僕は遅れてました。

恩田: 何故こういうこと訊くかというと、瀧口修造を始め、多くの知識人によってシュールレアリズムなどのフランス文化に関しては、日本では詳しく紹介されていました。ところがその後にニューヨークで起こっていたことは、総合的な知識としては日本に辿りついてないような気がするんですね。

吉増: そうでしょうね。しかし、恩田さん、インタビューの相手が違うと別のシーンの知識が得られるはずです。たとえば、小杉武久さん、篠原有司男さん、あるいは松本俊夫さんに訊いてみたら…。一九六四年に東野芳明さんが『現代美術』という本の出版をしました。アメリカを訪れて、ニューヨークを中心に現代美術をつぶさに見て歩いて、それを紹介してくれたの。それがものすごく大きな、今恩田さんがおっしゃったアメリカの空気を導きだした切っ掛けだったのね。特に僕個人にはね。

恩田: 面白いですね。ポイントポイントでは色んな情報が日本に入ってきたんですね。

Gozo Yoshimasu at a Performance. Photo by François Lespiau

吉増: アメリカというとジャズの方が強かったね。新宿のピットインで山下洋輔さんたちが演奏していて、麻薬で捕まってアメリカに帰れなくなったエルヴィン・ジョーンズと一緒に演奏していたり。舞踏の集団も踊っていたり。そこで、ジャズと詩を結び付けるような運動が始まった。

とても激しい実験的なジャズに飛び込んで

恩田: そのあたりで吉増さんも、ジャズミュージシャンと共演して詩の朗読を始めたと。どのような経緯でそうなったんでしょうか?

吉増: 場所は新宿ピットイン、中心人物は諏訪優さんだった。ジャズの最も尖鋭な批評家の副島輝人さんの呼び掛けでした。一九六八年頃、詩とフリージャズを組み合わせようというんで、ピットインの二階の物置きみたいなニュージャズホールで始まった。あまり人が来ない場所でね。阿部薫さんと、高柳昌行さんと、沖至さんと…、今では伝説的な人が演奏していたけれど、客はたいてい二、三人で、演るほうが五、六人ってことも多かった。役者さんとして有名な殿山泰司さんがよく来ていて、一緒にラジオの番組やったときにいっていました。「やる方は五、六人いてさ、客は俺ともう一人ぐれえだ」なんてね。とても激しい実験的なジャズをやっていたの。副島さんにいわれて、ジャズコンボに飛び込んで『古代天文台』という詩篇を発声した。

Gozo Yoshimasu and Otomo Yoshihide Performance in “Voices and Echoes” Tour. Video by Aki Onda. Abrons Arts Center, New York City September 27, 2012. “Voices and Echoes” was organized by ISSUE Project Room and curated by Aki Onda. Video editing by Fields Harrington

恩田: そのころはどういう風に詩を朗読していましたか? 

吉増: 激しい演奏じゃないですか。うるさくて何も聞こえないような状態になるのね。だからどんどん絶叫するわけ。ミュージシャンと一緒にやると、見ている方から垣根を越えて、向こう側へ入っちゃうと、何でもできるような気がした。不思議だったね。

恩田: 詩の朗読って枠を超えちゃったんでしょうね。

吉増: そう。だから自分が「楽器」になったような感覚が生じて。ジャズの方からは、とんでもない「ボーカル」が出てきたぞっていわれたことを覚えています。

恩田: ピットイン以外の他の場所でもやりましたか?

吉増: ずっと後になって、渋谷の東急本店向かい側の小さなビルの三階にプルチネルラっていう人形劇専門の小屋がありました。この場も諏訪さんがつくった。そこで詩とジャズの組み合わせの公演が随分あったなあ。七二年頃にはパルコの池袋店でジャズと詩と舞踏を組み合わせた前衛的な公演をぶったこともありました。

バランスのいい時はそれが音源として残っているけれども、どうにもならないようなケースがいっぱいあって…。

恩田: ギタリストの高柳昌行とのコラボレーションはどのようにして始まったんですか? 

吉増: 副島輝人さんから紹介されて、ベースの翠川敬基と随分長い間ほんとにいいパートナーとして続いたの。翠川の先輩格のミュージシャンが二人いて、その一人がギターの高柳昌行さん、もう一人がパーカッションの富樫雅彦さんだった。翠川と一緒に高柳さんとセッションをやった。翠川と富樫さんとのセッションもあった。高柳さんとは一番極端なところまで行ったかな。一緒にやってて、正直にいうとやっぱり戸惑う。むちゃくちゃ大音響だしさあ。だって何も聴こえないんだもん。灰野敬二どころじゃないよ、確信犯だからさ(笑)。

恩田: それでも、なおかつ詩の朗読を入れようとすると(笑)。

吉増: バランスのいい時はそれが音源として残っているけれども、どうにもならないようなケースがいっぱいあって…。

恩田: その頃に録音された音源って残っているんですか? 高柳昌行、翠川敬基との『死人』のCDはリリースされてますが、他にもあるんでしょうか?

吉増: 僕も恩田さんに似てるけど、めっちゃテープいっぱい残してるからね。僕の部屋は何百本ものカセットテープで埋まってる…。

恩田: じゃあ、お伺いして、漁ってみないといけないですね。

吉増: たくさん、たくさん残ってる(笑)。

恩田: そのころはどういう風に詩を朗読していましたか? 

吉増: 激しい演奏じゃないですか。うるさくて何も聞こえないような状態になるのね。だからどんどん絶叫するわけ。ミュージシャンと一緒にやると、見ている方から垣根を越えて、向こう側へ入っちゃうと、何でもできるような気がした。不思議だったね。

恩田: 詩の朗読って枠を超えちゃったんでしょうね。

吉増: そう。だから自分が「楽器」になったような感覚が生じて。ジャズの方からは、とんでもない「ボーカル」が出てきたぞっていわれたことを覚えています。

恩田: ピットイン以外の他の場所でもやりましたか?

吉増: ずっと後になって、渋谷の東急本店向かい側の小さなビルの三階にプルチネルラっていう人形劇専門の小屋がありました。この場も諏訪さんがつくった。そこで詩とジャズの組み合わせの公演が随分あったなあ。七二年頃にはパルコの池袋店でジャズと詩と舞踏を組み合わせた前衛的な公演をぶったこともありました。

バランスのいい時はそれが音源として残っているけれども、どうにもならないようなケースがいっぱいあって…。

恩田: ギタリストの高柳昌行とのコラボレーションはどのようにして始まったんですか? 

吉増: 副島輝人さんから紹介されて、ベースの翠川敬基と随分長い間ほんとにいいパートナーとして続いたの。翠川の先輩格のミュージシャンが二人いて、その一人がギターの高柳昌行さん、もう一人がパーカッションの富樫雅彦さんだった。翠川と一緒に高柳さんとセッションをやった。翠川と富樫さんとのセッションもあった。高柳さんとは一番極端なところまで行ったかな。一緒にやってて、正直にいうとやっぱり戸惑う。むちゃくちゃ大音響だしさあ。だって何も聴こえないんだもん。灰野敬二どころじゃないよ、確信犯だからさ(笑)。

恩田: それでも、なおかつ詩の朗読を入れようとすると(笑)。

吉増: バランスのいい時はそれが音源として残っているけれども、どうにもならないようなケースがいっぱいあって…。

恩田: その頃に録音された音源って残っているんですか? 高柳昌行、翠川敬基との『死人』のCDはリリースされてますが、他にもあるんでしょうか?

吉増: 僕も恩田さんに似てるけど、めっちゃテープいっぱい残してるからね。僕の部屋は何百本ものカセットテープで埋まってる…。

恩田: じゃあ、お伺いして、漁ってみないといけないですね。

吉増: たくさん、たくさん残ってる(笑)。

文壇の世界は芸事に走ることを嫌って、白い目で見る

恩田: 詩人とジャズミュージシャンとの共演が盛んになって、それが詩の世界全般にもそれが広がっていったんでしょうか? それとも、吉増さんとそのまわりだけ?

吉増: 僕の個人的な感想だけれど、決して全般には広がらなかった。文学の世界ってのは絶対的に保守的だから。特に詩の世界はそう。芸事に走ることを嫌って、白い目で見る。けっして主流になることはない。いまだに音声化することに対して生理的な嫌悪感を表明する人が多いのね。

恩田: なるほど。吉増さん以外で試みていらっしゃった方は?

吉増: その先駆者は白石かずこさんだね。最初期には富岡多恵子さんも白石さんの傍にいらした。白石さんは生まれがカナダってこともあるし、女性であることで随分つらい目にもあってきているから、根っからの反逆児だね。才能の塊みたいな人。

恩田: 数年前にニューヨークのバワリー・ポエトリー・ルームで白石かずこさんが沖至と競演してるのを観ましたよ。もの凄く強いオーラを放ってました。あまりにも風変わりで…。きっと権威に対するこだわりが少ないんでしょうね。

吉増: ほんと少ないね。富岡多恵子さんは文壇の方へ行っちゃったから。それと比較すると、白石かずこさんて人は、いかにずっと一本筋で通してきたかわかりますよ。ほとんどの詩人は、放っておくと文壇や学問の世界の方へ吸い込まれていっちゃうんだ。

恩田: 詩の世界はお金になりませんからね(笑)。

吉増: ならないねえ(笑)。だからまあ経済的な問題でもある。突っ張っているだけじゃ生きていけないから。

「芸事」の根にあるはずの「詩」

恩田: 吉増さんがジャズミュージシャンと共演した時期ってのは何年から何年くらいまでですか?

吉増: どの辺までやったかなあ。六八年から始めて、一五年間くらいかな。ただ、本当は「詩の朗読」というのは好きじゃない。本質的に書く方が好きだからね。はっきりと一種の哲学として保持しているのは、「芸事」の根にあるはずの「詩」を取り戻そうとすること。だから、いわゆる「朗読」じゃないんだな…。それに、まわりからは積極的にやっているように見えたかもしれないけど、どちらかというと逃げ腰だったような気がする。

恩田: 吉増さんの意識の中では、むしろ書くことに集中していて、パフォーマンスは副次的なものであったと。

吉増: そう。「言語の物質性」への強い関心は一貫しているけど、「舞台」や「パフォーマンス」に対してはいまでも疑問を持っています。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが。

恩田: 吉増さんがやってきたように詩の言語を解体する方向に走っていくと、その運動のひとつの表現として「パフォーマンス」があったのかもしれませんね。あくまで書くことが根底にある。

吉増: “解体”というと意識的に聞こえるけれども、もっともっと根にある本能的な創造的なものの発動なんでしょうね。たとえば、自分が書いてきた詩集を追っていくとそれがわかってくると思うんだけれど、七〇年代の半ば頃に河出書房が僕の全詩集を出版するという話を持ち出して、まだ若いし、短いキャリアで全詩集を出すなんて破天荒なことなんだ。そんなところへ囲い込まれるのは嫌じゃない。それで必死になって『海』という雑誌に一千行の三部作を書いて、『熱風』として出版した。点だとか、線だとか、カッコもそうですけど、テキストに記号を入れ込んでね、朗読できないものを書いた。ところがそれを朗読するようになったのね。朗読するってことはとても怖いことでね、覚えちゃうんですよ。だけど覚えちゃうとね、流行歌の歌詞みたいになってそこで止まっちゃうの。何とか壊さなきゃいけない。それが本能的にわかるから、壊すために何をするかというと、やっぱり書くしかないわけね。

点だとか、線だとか、カッコもそうですけど、テキストに記号を入れ込んでね、朗読できないものを書いた

恩田: 私はその読点の使い方は息使いのような気がするんです。

吉増: そうだね。息使いでもあるね。実際に一千行書くのは大変じゃない。行間飛ばして、はっはっはっ(笑)。だからスペースを、「呼吸の空間だ…」と見せなきゃいけない。

恩田: ようするに空白も含めて成立している。言葉があって、言葉に対する…。

吉増: 沈黙ね。

恩田: なるほど、沈黙をテキストに入れ込んでいったと。

吉増: 普通だと、実質の行でしか数えないんだけれど、点とか空白でもって、原稿料稼いじゃったわけよ(笑)。

恩田: 追い詰められた状況で発見したひとつの手法ですね。

Yoshimasu Gozo. Naked Memo “八戸 Hachinohe”. 2010. Courtesy of the artist © 2014 the artist

吉増: あの頃、恐山に通っていたんですよ。その当時、まだ東北自動車道が半分しか開通してなくてね、トマス・フィッツシモンズっていうアメリカの詩人の夫妻が家に居候していて、恐山を見せてやろうと思って、連れってたの。でも、僕が驚いちゃってさ。

恩田: どうして驚かれたんだすか?

吉増: だって、あれは“他界”だから。

恩田: 恐山に行って、何をされたんですか? シャーマンに、イタコに会われたんですか?

吉増: そう、イタコさんたちは、差別されている人たちだから、本堂の中に入れてもらえないのよ。で、本堂の脇に蓙を敷いて座っているのよ。ひとりひとり全員違っていてさ。眼が見えない人たちだからね。側に座ったら、まあ気持ちよくてさ、こんなドラマはないと思った。口移しで降りてくるものを伝えるんだけれど、いい加減なんだよ(笑)。

降りてくる時にね、貝殻なんかで作った綱みたいな楽器をじゃらじゃら鳴らすんだ

恩田: 正確な意味での“言葉”ではないですよね。

吉増: ないない。言葉というよりもトーンと歌だね。素晴らしいヴァイブレーションが伝わってくるの。歌舞伎でいう口説きに近いかな。「極楽の枝に南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)がなるやあ。ひぃーいーい」なんてやってるだけなの。で、上手いのと下手なのがいるわけ(笑)。下手なのは散文的なんだよ。上手いのはスーパースター。テープレコーダー持って行って、気に入ったお婆さんの側に座って東北弁もわからないのにテープレコーダーで録音していた。七四-七五年あたりにソニーから携帯型のテープレコーダーが出てね。それを持って歩けるようになったことが画期的だった。録音したテープを持って、近所の温泉に行って女中さん呼んで、通訳してもらった。それが楽しくってね。「おらわ、なんとかだべー。へっていに行って、お土産もらえねーで、なんとかしてー」なんていってる。“へってい”って何だって訊いたら、「兵隊さんだよ、兵隊さん」って。

恩田: イタコさんがいて、口移しに天から降りてくるものを伝えますよね。吉増さんは、そこから何を得ようとしていたんでしょうか?

吉増: 降りてくる時にね、貝殻なんかで作った綱みたいな楽器をじゃらじゃら鳴らすんだよ。いい加減な楽器なんだ。だけど、自前の楽器と経文でもって、劇的な場面をつくる。それに震撼させられたんです。だからね、土方巽の舞踏なんかを池袋で見てて、だんだんつまらなくなってきた。イタコさんに逢いに行ったら、こっちの方が本物だなあって思ってさ。

恩田: ようするに、舞踏なんて洗練されすぎていると。

吉増: 「芸術」になってしまったものは、即座に“演技化”と“情報化”するでしょう。これでは全然駄目だって思った。それで通い続けて、テープに録音するのが面白くて。青森の温泉に籠って、読み砕いていったときに、わかる瞬間があった。「おらは、うがないだば」って。“う”ってなんだろうと思ったら、「あっ、“運”がないだ! フォーチュンがないだ!」。そうやって読み解いていったの。

恩田: テキスト化したんですか?

吉増: そう。全部残ってます。必死で書いたのよ。どうしても物書きだからさ(笑)。『文学界』という雑誌に載せた。

恩田: 「芸術の息吹」という言葉がありますけど、“息吹”というのは、ヴァイブレーションなんですね。定着したものじゃなくて、その前段階であると。イタコさんからはダイレクトにそれを感じていたんでしょうね。

吉増: あれは素晴らしかったなあ。フェリーニの映画のサーカスの場面を観ているのにやや近い豊かさがあった。

Yoshimasu Gozo. Naked Memo “光の棘 Hikari no Toge”. 2007. Courtesy of the artist © 2014 the artist

恩田: それが吉増さんの朗読のパフォーマンスの形態に及ぼした影響はどうなんでしょうか? 

吉増: シベリアの北方のシャーマンって全部自分でやるじゃない。イタコさんたちと同じで、楽器をかき鳴らして、ランプを首からぶら下げて、色々なところに発信回路を持ってるわけね。人間の昆虫化したような状態だよね。僕の場合には、テキストを読むという以前に、読むときの物音の立て方や、座り方からあらゆるものを含めて、最初から何かに触っていく運動というのかな、そういうところへ行こうという傾向が必ずあるね。恐山に行ってイタコさんたちの側に座って自分の中に何を入れようとしていたかというと、彼女たちの作っていた楽器、物音、その空気を、自分もやろうとしていた。三〇年、四〇年かかってそれに気づいた。おれも随分シャーマン的とかいわれて傷ついてきたけれども、それはほんと「無知の涙」だよな。

恩田: 吉増さんが半世紀にも渡って続けてきた行為、例えば小さいものでいうと詩の世界、大きなものでいうと日本の文化状況に反旗を翻して、書物であれ、パフォーマンスであれ、何か違う方向に自分をもって行こうとしてきたのは、差別されるような状況を自分で作ってきたのかもしれませんね。

吉増: そうかもね。挑発するというか、根底に反逆的なところは間違いなくあるね。あと、この恩田さんとの対話で浮かび上がってきた「言語の物質性」と生来の「無知性」に対する深い敬意…、それが僕の詩の根幹なんだよ。あるいは、それはもしかしたら怒りなのかもしれない。

五〇年間詩を書く手は止めなかった

恩田: 今日、ずっとお話を伺っていると、六〇年代、七〇年代の日本の文化的状況では、そういう怒りというものが許されていたように思えますね。それは、吉増さんが瀧口さんから学ばれたことを含めて、文化におおらかで何でも受け入れる資質があった。いい換えれば、その頃の文化には反逆的な精神が根付いていた。吉増さんは、幸せな時期に若い頃を過ごされて、自分の創作活動の最初の段階でそういう反逆精神を時代から学びとったような気がしますね。

吉増: そういうことでしょう。五〇年間詩を書く手は止めなかったのね。二〇冊以上の詩集を出したけれども、それは今となると何事かであったんだと思います。どんなに苦しくても詩を書く手は止めてない。パフォーマンスをすることは書くためのエネルギーを補給していたのかもしれない。で、いまだに何とかして音声にし難いように、読めないようにして書いている。『螺旋歌』という作品なんて朗読不可能だからな。朗読しようと思って書いたものは絶対ダメなものにしかならないから(笑)。

それこそが「沈黙」であり、本当の「しじま」であり、宇宙的なものであり、あるいは「詩」であると。

恩田: 話が変わりますけど、一九七〇年にアメリカのアイオワ大学の創作科に行かれましたよね。そこで教えてらっしゃったんですか?

吉増: いやいや。理想的な創作環境を提供するっていう名目だけで、世界中から文学者を招いていたの。七ヶ月間、秋から春まで、何をする義務もないの。

恩田: アメリカの文化に直に触れられて、それが吉増さんの仕事にどう影響しましたか?

吉増: いまだに続いていると思うけれども、言語を習得してその文化に入っていくんじゃなくって、本能的に日常的に使う言語を枯らそうとする力が働いた。どうしておれはこんなに言語を習得しようとしないんだろうと。もうひとつの創作するための言語が、それを止めているわけ。枯らそうとしている。まったくノイローゼになって言葉を枯らすってことから始まった。それがとても大きかった。

恩田: 英語を話そうとするわけでもなく、日本語を豊かにしようとするわけでもなく、むしろ逆にそういう言葉のない方向に自分を持っていって、そこからどういう創作ができるかですね。

吉増: 今から考えると、それこそが「沈黙」であり、本当の「しじま」であり、宇宙的なものであり、あるいは「詩」であると。

恩田: 詩という言葉の世界にありながら、言葉でないもので言葉を突き抜けていこうとしたわけですね。

吉増: そうそう。それにしても、とんでもない苦痛の連続でした。それが波状的にやってくるの。自分に能力がないからかと、自問自答するわけですよ。その後ミシガン州に行っても同じことが起きて、それからサンパウロに行ってもそういうことが起きた。そうすると、あっ、これは言語の奥底がひび割れを起こして枯れろっていってるんだということがわかってきたんだね。しかも、苦しいことに、それも書くということを通してなのね。

gozoCiné “奄美フィルム―ミホさん追悼 Amami Film: In Memory of Miho-san.” 2007, 13 minutes. Courtesy of Osiris. Special thanks to Yamagata International Documentary Film Festival. English subtitles: Mizuno Sachiko. © 2014 Yoshimasu Gozo

恩田: そこから新たに創作を始められたと。

吉増: うん。そうして、やっと「言葉を枯らす」という認識とその表現に辿り着いた。五〇年っていうのは大袈裟だけど、四〇年くらいはかかっているね。

恩田: その当時に書かれたのはどの詩集ですか?

吉増: 日本に戻ってから書いたのは『王国』だとか、『我が悪魔払い』だとか、もうむちゃくちゃな作品。それでも書いた。

恩田: 手探りで書いていたわけですね。 

吉増: 僕は全部手探りだけどね。頭じゃないからさ。もっと始源的な…、言葉の出逢いから掴んでいこうという衝動だけで書く。

恩田: それは何処からくるんでしょうか? 

吉増: 何処からくるんだろうな。知識でもないし、経験でもないし。だから眼の見えないイタコのお婆ちゃんみたいなものに似ているよ。「極楽の枝に南無阿弥陀仏がぶら下がっていて…」というだけなんだよ。

恩田: でも、それは神秘じゃないと思うんです。イタコさんたちは連綿と虐げられてきた。そこから習得した技術があるように思うんです。ある種、世界の波動を伝達する技術を持っている。

吉増: そうね。今恩田さんがいい当てたね。世界の波動を伝達する…。生活の全領域に触れるということでしょうね。イタコさんたち、もういなくなって絶えちゃったけどね。思いがけない話になってるけど、結局これがなかったら、私の人生ほんとにつまんなかった。

恩田: 最後に、武満徹についてお訊きしたいんです。武満さんは、瀧口修造と同じように広いマインドを持っていました。現代音楽の作曲家でしたが、映画音楽もやれば、物書きとしても多大な文章を残しています。それに、七三-九二年まで行われた音楽祭「Music Today」の音楽監督としての仕事がありました。色んな作曲家を海外から連れてきて日本の文化に刺激を与えつづけた。反対に日本人の作曲家を海外に紹介したりもしています。いわゆる文化の架け橋であり、カルチュアル・アイコンだった。吉増さんの仕事とも、ひとつの枠に収まるのではなくて、枠組みを解体していく、消し去っていく、それ超えたところで何かを表現しようとしていくという点でつながりを感じるんですね。武満さんとの交流ってあったんですか?

吉増: うん、対談もしていて、ちくま文庫の『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』に収録されています。瀧口さんの弟子の中で、最も良質な精神の現れが武満さんだったな。それからあの人は、変な学歴のない人で…。

世界の波動を伝達する…。

恩田: そうですね。中学しか出ていなくて、大学教育を受けていませんからね。

吉増: しかもね、戦後すぐの子供でさ。ソニーの前身の東通工でアルバイトをやっていたことがある。その当時、”Sony”は東京通信工業のロゴというか愛称だったのね。初めは、きっと、町工場に毛の生えたようなのだった。その当時はテープというものがやっとできたころで、それからワイヤーレコードもあって、そういう機械に色んな音を入れていた。ということは、テープレコーダーが始まるところに武満さんはいたのね。面白いよね。それが瀧口修造のような、どっちかというと頭でっかちなシュールレアリストの薫陶を受けて、見事に花開いたのが武満さん。

恩田: 大友良英さんから聞いて面白かったんですが、大友さんが一番最初に制作した映画音楽『青い凧』を武満さんが聴いて、電話をかけてきたそうなんです。大友さんに逢いたいと。何か近しいものを感じたんでしょうね。で、実際に会って、武満さんがいったのは「僕が先にターンテーブルをやっていたんですよ」って(笑)。

吉増: はっ、武満さんもいうね(笑)。

恩田: 近しいんだけれど、近いゆえに競争意識があるんでしょうかね。吉増さんが今おっしゃったテープレコーダーの話からすると、正規の音楽教育よりも、音楽を解体するところから入っていって、格式の高い現代音楽の王道にまで辿り着いた。でも、映画音楽もたくさん書きましたし、歌謡曲まで書いていますし、民衆の心に通じる通俗的な世界にもつながっていた。

吉増: 年代のなせることなのかな、武満さんがもう五年遅れて生まれていたら、戦後すぐの進駐軍と、それから町工場がソニーになっていく時代と出逢ってなかったかもしれない。ものすごく運命的なものかもしれない。

恩田: それは歴史によって定められた運命みたいなものですね。

吉増: 僕は何度か詩集を送って、手紙をもらってね。それがなかなかいいもんだったんだなあ。瀧口さんもそうだったけれでも、直接親しい人に対する親近感を表明するような、そういう精神があった。

恩田: 吉増さんはダイレクトに反逆児で、武満徹はもっと柔らかです。でも、同じような精神でもって、色んな人をつなげたり、ジャンルの垣根を壊したりしていたと思うんですね。彼は、自分が正規の音楽教育を受けてないということを、しきりにいっていました。それはコンプレックスというよりも、反逆精神の現れですね。彼の全集を通して読んでみると、そういう答えがたくさん見受けられる。

何かにチャネリングするというのは、そのことを模倣するのではなくて、エッセンスに近づいていく運動

吉増: 非常に正確だと思う。そういえば、僕がパフォーマンスの時に口からぶら下げているサヌカイトという石ね。一九六五年に小林正樹監督がラフカディオ・ハーン原作の『怪談』を映画化するときに、武満さんがサヌカイトをぶっ叩いて雪女の風の音を作ったのね。ミュージック・コンクレートの手法だけれど、そんな作曲家の想像力に、僕は何処かでいたく惹かれてねえ。

恩田: サヌカイトは何処でとれるんですか?

吉増: もともとは讃岐。讃岐の石だからサヌカイトっていうんだけどね。瀬戸内海を越えて地層がつながってて、奈良、河内のあたりでもとれる。

恩田: それを吉増さんは何処で手に入れたんですか?

吉増: 讃岐でチリンチリン石とかいって土産物屋で売ってるの。それをいつも持って歩いてる。僕が大学で教えるときに、武満徹論をやるときに、サヌカイトを学生に伝えてきたの。で、そうしているうちに、教室でやっていることが、自分の方に乗り移ってきた。武満さんのミュージック・コンクレートを経た音はちょっと違う音になっているから、元々の音を聴こうと思ってさ。僕は石とか叩くことが好きだから、そっちの方からもきている。だから、美化しちゃうと、武満徹がやった仕草をなぞっているとなるけれど、それだけじゃない。

恩田: もっと色んな要素が入り込んでいると。まあ、何かにチャネリングするというのは、そのことを模倣するのではなくて、エッセンスに近づいていく運動ですから。

吉増: 今日は随分大変な話が出て来ていますね。いやあ、楽しいというよりは、深いなあ。

恩田: 何か怖いものでもありますね(笑)。でも芸術表現、何かを表現していくってのは大きいものにつながっていくということですから。

吉増: まあ、これだけ話すことができて、生涯の夢の一角を通り過ぎた気がするなあ。ありがとうございました。

恩田: いいえ、こちらこそありがとうございました。

An English version of this text is available here.

More in this theme

Subscribe to our newsletter

Related Content

Interview with Yoshimasu Gozo

Yoshimasu Gozo’s creative endeavors have spanned half a century since the publication of his first book of poetry, Shuppatsu (Departure), in 1964. During this time he has cultivated a singular art form without parallel in postwar Japanese poetry. Some of his work is so unorthodox that it defies the print medium and can be delivered…